河上肇 Kawakami Hajime

明治12(1879)〜昭和21年(1946)

山口県玖珂郡錦見村(現岩国市錦見)に生まれる。明治34年(1901)、田中正造の天皇直訴(足尾鉱毒事件)に衝撃を受け、婦人鉱毒救済会の演説会において、身につけていた外套、羽織、襟巻を寄付。翌日もさらに衣類を同会に送付する。明治35年(1902)、東京帝大法科大学政治学科を卒業。翌年、東京帝大農科大学実科講師となる。明治38年(1905)12月、教職を辞して、伊藤証信の「無我苑」に入る。同年、『日本尊農論』刊行。明治39年(1906)3月、「無我苑」閉鎖。明治42年(1909)、京都帝国大学法科大学助教授となる。大正2年(1913)10月、ヨーロッパ留学に出発。大正4年(1915)2月、帰国。大正6年(1917)、『貧乏物語』刊行。大正9年(1920)、『社会問題管見』、『近世経済思想史論』刊行。大正10年(1921)、『唯物史観研究』刊行。大正11年(1922)、『社会組織と社会改革に関する若干の考察』、『唯物史観の略解』刊行。大正12年(1923)、『資本主義経済学の史的発展』刊行。大正13年(1924)、櫛田民蔵の『社会主義は闇に面するか光に面するか』で批判を受け、マルクス研究の出直しを決意し、以降、『資本論』の研究、翻訳に没頭する。昭和3年(1928)、文部省の圧力を受け、京都帝国大学を辞職。昭和4年(1929)、『マルクス主義のために』、『資本論入門』(第1巻上冊)、『小児病を克服せよ』、『マルクス主義批判者の批判』『マルクス主義経済学の基礎理論』刊行。昭和5年(1930)、『大衆に訴ふ』、『資本主義的搾取のカラクリ』刊行。昭和7年(1932)、共産党に入党。昭和8年(1933)1月、治安維持法違反で検挙。懲役5年の判決を受ける。収監中、仏教書や陶淵明、白楽天、王維、蘇東坡など詩人に触れる。昭和12年(1937)6月、出所。昭和14年2月、『入獄記』(6冊本)書き終える。昭和19年(1944)、西田幾多郎を訪ね、ドストエフスキーの『死人の家』を勧められる。昭和21年(1946)1月30日、京都上大路町の自宅で死去。

河上肇 岩田博蔵宛書簡(未発表)
岩田博蔵宛書簡(未発表)
河上肇 詩書
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