田中一村 Tanaka Isson

栃木県下都賀郡栃木町(栃木市)に父、田中弥吉、母、セイの6人兄妹の長男として生まれる。本名、孝。父は稲村の号を持つ仏像彫刻家であった。大正元年(1912)、一家は東京麹町に移住。大正4年(1915)7歳の時、全国児童画展で天皇賞を受賞し、父稲村は喜び、「米邨」の雅号を与えた。この頃、すでに天才的な画才を発揮する息子の絵を父稲村が売り歩くこともあったという。大正10年(1921)、芝中学に授業料免除の特待生として入学。学業のかたわら南画や日本の伝統絵画の研究に没頭し、日本画家大智勝観にも指導を受ける。大正12年(1923)、結核を発病し房州小湊に転地療養する。大正15年(1926)、東京美術学校日本学科に入学するが、結核の再発、父の病などで家庭が困窮し、僅か3ヶ月で中退する。同年12月、京橋の国民新聞社講堂で「田中米邨画伯賛奨会」が開かれる。昭和3年(1928)、母セイ、弟実、死去。昭和6年(1931)、自分の本来向かうべき画道を自覚し、その本道と信じる作品を後援者に見せるが、一人の賛同者も得ることが出来ず、そのすべての後援者と絶縁する。それにより、生活費を稼ぐため、帯留め、根付けの小物細工、木魚などを作って糊口を凌いだ。昭和10年(1935)、父弥吉、弟明、死去。昭和13年(1938)、母方の親類である川村幾三のつてにより、祖母スエと姉喜美子、妹房子と4人で千葉に移住する。昭和22年(1947)、川端龍子の主宰する第19回青龍社展に「白い花」を初出品し入選する。この年、号を米邨から柳一村と改める。昭和23年(1948)、第20回青龍社展に屏風絵「曙光」を出品するが落選、参考作品として出品した「波」が入選する。選考後、作品の評価を巡って川端龍子と対立、自ら「波」の入選を取り下げる。以降、院展や日展などに出品するも落選を繰り返す。昭和30年(1955)、四国、九州へのスケッチ旅行が契機となり奄美への移住を決意する。昭和33年(1958)、千葉の家を売り払い単身奄美に移住。以降、貧しい借家生活のなかで、生活を紬工場で働くなどして支えながら、壮絶な制作活動を続ける。昭和40年(1965)、姉喜美子死去。昭和52年(1977)、自宅にて心不全で死去する。昭和54年(1979)、名瀬市中央公民館で「田中一村画伯遺作展」が開かれる。昭和59年(1984)、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の画家田中一村」が放映され一躍その名を全国に知られる。

田中一村鶏頭
鶏頭
田中一村 墨梅図
墨梅図

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