亀井南冥 Kamei Nanmei

寛保3年(1743)〜文化11(1814)

筑前国早良郡姪浜村(現福岡市)に、村医亀井聴因の長男として生まれる。通称、主水。名、魯。字、道載。はじめ、肥前国蓮池の黄檗僧大潮元皓、京都の吉益東洞に学んだのち、大阪の永富独嘯庵に入門、古学を学ぶ。独嘯庵門下には、小石元俊、小田享叔らがいた。宝暦13年(1763)、独嘯庵の漫遊雑記に序を書く。朝鮮通信使と藍島で謁見、応酬唱和して文名をあげる。明和元年(1764)、亀井塾蜚英館を開く。天明4年(1784)、福岡藩校西学問所甘棠館の創設に伴い祭酒(学長)となる。寛政2年(1790)、寛政異学の禁が出され、幕府の昌平坂学問所で朱子学以外の学問が禁止される。南冥の西学問所甘棠館は、もう一つの藩校、朱子学派の東学問所修猷館と対立しており、それらの要因によって、南冥は、寛政4年(1792)、藩命により西学問所甘棠館祭酒を解任され、蟄居禁足処分となる。その後、西学問所甘棠館は、長男の亀井昭陽が後を継いだが、寛政10年(1798)、西学問所甘棠館が焼失、それにともない西学問所甘棠館は廃止され、昭陽も解任される。南冥は失意に沈むが、やがて息子の昭陽を中心に私塾として亀井塾が再開され、南冥もそこで指導にあたる。南冥、昭陽父子の亀井塾は、原古処、広瀬淡窓・旭荘兄弟ら多くの優れた門人を輩出した。文化11年(1814)、自宅の火災により死去。享年72歳。
著書に『古今斎以呂波歌』『南冥問答』『弁惑論』『肥後物語』『論語語由』『肥後物語』など。

田上菊舎 亀井南冥 墨梅図
墨梅図

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