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頼春水 頼春風 頼杏坪 Rai Shunsui,Shunpuu,Kyouhei

頼春水

延享三年(1746)~文化13年(1816)
安芸国竹原(広島県竹原市)に生まれる。名、惟完。字、千秋、伯栗。別号、霞崖、拙栄、和亭など。父惟清は紺屋(染物業)を営む町人。幼少から書や詩文に才能を発揮し,明和三年(1766)に大坂へ遊学。趙陶斎に書を学び、片山北海の「混沌社」に入り儒学を学ぶ。尾藤二洲、古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、安永二年(1773)、江戸堀に私塾「青山社」を開く。安永九年(1780)、筆写した「大日本史」二百四十三巻を広島藩に献上。天明元年(1781)、広島藩儒となり藩学を朱子学に統一する。弟の藩儒杏坪と「芸備考義伝」を編集し、藩主からの信頼あつく、三百石取り、御歩行頭となる。頼山陽は子。

頼春風

宝暦3年(1753)~文政8年(1825)
安芸国竹原(広島県竹原市)に生まれる。春水の弟。名、惟彊。字、叔義、千齢。通称、松三郎。明和六年(1769)、大阪に出て藤岡道築に医学を学び、尾藤二洲から朱子学を学ぶ。安永二年(1773)、竹原下市村に帰り医者を開業するとともに、竹原第一の産業である塩田経営に乗り出し、竹原頼家繁栄の基礎を築く。寛政五年(1793)、兄春水のすすめで郷塾「竹原書院」を設立、自ら講師となり、竹原の学問の向上に尽す。著書に「春風館詩鈔」「適肥(てきひ)」「芳山小記」など。

頼杏坪

宝暦6年(1756)~天保5年(1834)
安芸国竹原(広島県竹原市)に生まれる。春風の弟。名、惟柔。字 、千祺。通称、万四郎。幼少より兄の春水のもとで学問を身につけ、天明三年(1783)、春水の 江戸詰めに随行し、服部栗斎に学ぶ。翌年より備中鴨方の西山拙斎の「欽塾」で朱子学 を学ぶ。その翌年には広島藩儒となり、寛政九年(1797)以降は春水に代わり世子の侍読として江戸に赴く。文化八年(1811)御納屋奉行上席郡役所詰めとなり、三次(三次市の一部と双三郡の一部)、恵蘇(庄原市の一部と比婆郡の一部)両郡の代官となる。三年後には奴可(比婆郡の一部)、三上(庄原市の一部) 両郡の代官を兼任、朱子学者として直接郡政を担当する。著書に「春草堂詩鈔」「遊石稿」など。「芸備孝義伝」を春水とともに編集。「芸藩通志」一五九巻を編纂。

頼支峰

文政5年(1822)~明治22年(1889)
京に生まれる。名、復。字、子剛。通称、又次郎。後藤松陰、牧百峰に詩文を学ぶ。従五位下大学少博士。頼山陽の子。儒者。

頼春水 頼春風 頼杏坪
三頼翁遺墨

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