安田理深 Yasuda Rijin

明治33年(1900)〜昭和57年(1982)

農家の長男に生まれる。本名、亀治。号、無窓。明治39年(1906)6歳、鳥取市にあったキリスト教系の鳥取幼稚園に通う。大正5年(1916)16歳、鳥取市東町の私立造士学舎を修了。曹洞宗の日置黙仙老師より受戒。大正6年(1917)17歳、鳥取英語学校夜学会会員となる。大正7年(1918)18歳、このころ第百銀行鳥取支店に勤務。大正8年(1919)19歳、金子大栄の『仏教概論』を読み、強い感銘を受ける。大正9年(1920)20歳、京都へ出る。大正13年(1924)24歳、大谷大学学部大乗仏教科選科に入学。大正14年(1925)25歳、曽我量深が大谷大学に復職しその第一回講義に参加。曽我量深の唯識思想にふれ、以来、唯識思想の探求に思索の中心を置く。同年11月より金子大栄が編集発行人として発刊された雑誌『仏座』(昭和7年まで80号発行)に、我執を超克し無我を得る道を縁起法によって明らかにすることを主題として『縁起法の考察』を発表。昭和5年(1930)30歳、大谷大学を追放された曽我量深、金子大栄を中心とした興法学園を発足させ、雑誌『興法』の編集発行人となる。昭和10年(1935)35歳、曽我量深の命名による学仏道場「相應学舎」を開く。昭和18年(1943)年43歳、東本願寺において得度、法名を曽我量深の命名により「理深」とする。昭和19年(1944)4月より昭和21年(1946)年7月までの大谷大学に奉職。昭和35年(1960)60歳、パウル・ティリッヒと対談。昭和57年(1982)82歳、2月3日、相應学者における最後の講義を行う。同月19日、心不全のため死去。

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安田理深 易往而無人
易往而無人

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