広瀬淡窓 Hirose Tansou

天明2年(1782)〜安政3年(1856)

豊後国日田郡豆田町魚町(大分県日田市)に生まれる。通称、初め寅之助、後求馬。名、簡、後に建。字、廉卿、子基。号、淡窓、苓陽、青渓など。広瀬旭荘の兄。三浦梅園、帆足万里とならび「豊後の三賢」と呼ばれる。儒学者、漢詩人、教育者。 16歳の頃、筑前(福岡県西部)の亀井南冥に師事し儒学を学ぶ。19歳の頃、結核を患い帰郷。文化2年(1805)、私塾「桂林荘」を開塾。文化14年(1817)、塾名を「咸宜園」(かんぎえん)とし、身分を問わず万人に門戸を開いた。その教育方針は、学歴、年齢、身分を問わない「三奪法」という徹底した実力主義で、人間は正しいこと、善いことをすれば天から報われるとする「敬天思想」を説いた。塾生は、明治30年(1897)に塾が閉鎖されるまで、総数5千人に及び、高野長英、大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之、平野五岳ら多くの俊才を輩出した。

広瀬淡窓 詩書(双幅)
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広瀬淡窓 詩書
詩書
広瀬淡窓 広瀬旭窓 詩書(双幅)
詩書(双幅)

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