藤田嗣治 Fujita Tsuguharu (Leonard Foujita)

明治19年(1886)〜昭和43年(1968)

東京市牛込区新小川町1丁目8番地(新宿区新小川町)に生まれる。藤田家は、元々、房州長尾藩本田家の家老職で、祖母は、南画家春木南湖、南溟の一族だという。父、嗣章は、森鴎外の後を受けて陸軍軍医総監を務める。母、政は、旧幕臣小栗信の次女。明治36年(1903)17歳、暁星中学校の夜学に通いフランス語を学ぶ。明治38年(1905)19歳、森鴎外の示唆もあり東京美術学校西洋画科に入学。明治43年(1910)24歳、東京美術学校西洋画科卒業する。明治45年(1912)26歳、鴇田登美子と結婚。この時まで、白馬会、光風会、東京勧業博覧会などには入選するが、文展には3度続けて落選する。父の勧めもあって渡仏を決意する。大正2年(1913)27歳、妻を残し単身渡仏。大正3年(1914)28歳、ピカソのアトリエを訪れ、ピカソのキュビズム作品、アンリ・ルソーの傑作《女の肖像》を見て大きな衝撃を受ける。やがてルノワール、ザッキン、スーチン、モディリアニら多くの画家と交流する。大正6年(1917)31歳、フェルナンド・バレーと結婚。同年最初の個展をシェロン画廊で開く。大正8年(1919)33歳、サロン・ドートンヌ会員に推挙される。大正11年(1922)36歳、前年、サロン・ドートンヌに出品した作品がベルギー王立美術館の買い上げとなる。恩師和田英作が日本に持ち帰った作品《わが画質》(出品時、私の部屋)を第4回帝展に出品。その際、作品を審査するという話しが起こり、これに父、嗣章が激怒。無審査で推薦となった。大正13年(1924)38歳、フェルナンド・バレーと別居。リュシー・バドーゥ(ユキ)と同居。大正15年(1926)40歳、《友情》をフランス政府が購入、リュクサンブール美術館に収蔵される。昭和4年(1929)43歳、エコール・ド・パリの寵児となって、ユキ同伴で帰国(9月)する。東京朝日新聞社、日本橋三越で個展。昭和5年(1930)44歳、パリに帰る(1月)。昭和6年(1931)45歳、シェブールから中南米旅行に旅立つ(10月)。ブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルー、エクアドル、パナマ、キューバ、メキシコをまわり、アメリカを経て、昭和8年(1933)47歳、帰国する(11月)。旅行中、個展を各地開催し、メキシコには7ヶ月滞在し、リベラ、オロスコの壁画に感動する。マドレーヌと東京で仮寓する。昭和9年(1934)48歳、二科会会員となる。昭和11年(1936)50歳、マドレーヌ急死(6月)。堀内君代と結婚(12月)。昭和12年(1937)51歳、《自画像》、パリの国立近代美術館が収蔵する。昭和13年(1938)52歳、海軍省嘱託となる。昭和15年(1940)54歳、陸軍省の依頼でソ連、中国国境地帯に赴く。昭和16年(1941)55歳、帝国芸術院会員となる。昭和18年(1943)56歳、戦争の激化にともない戦争記録画の中心的存在になっていく。《シンガポール最後の日》その他作品に朝日文化賞が贈られる。国民総力決戦美術展に《アッツ島玉砕》を出品。昭和20年(1945)59歳、疎開先の小淵村藤野(神奈川県相模原市)で敗戦を迎える。昭和24年(1949)63歳、ニューヨークのブルックリン美術学校の教授に招かれ渡米(3月)。昭和25年(1950)64歳、フランスに向かう(1月)。昭和30年(1955)69歳、フランス国籍を取得、日本国籍を抹消する。昭和32年(1957)71歳、オフィシェ・ド・レジョン・ドヌール勲章受章。昭和33年(1958)72歳、ベルギー王立アカデミー会員となる。昭和34年(1959)年73歳、ランスの大聖堂で夫婦共々カトリックの洗礼を受ける。昭和40年(1965)79歳、礼拝堂を建立し、室内にフレスコ画を描く計画をたてる。昭和41年(1966)80歳、ランスに礼拝堂(ノートル=ダム・ド・ベラ、平和の聖堂)完成。フレスコ画を描く。昭和43年(1968)、チューリッヒ州立病院で死去。享年81歳。

藤田嗣治 稲荷神社(絵入りハガキ書簡) 藤田嗣治 砂浜の静物(仮題) 書簡付
稲荷神社(絵入りハガキ書簡)砂浜の静物(仮題) 書簡付

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