吉川英治 Yoshikawa Eiji

明治25年(1892)〜昭和37年(1962)

神奈川県久良岐郡中村根岸(横浜市)に生まれる。本名、英次(ひでつぐ)。明治36年、父の事業の破綻により尋常高等小学校を卒業目前で中退。印章店の小僧、活版工、雑貨商の店員、税務監督局の給仕など職業を転々とし、明治42年、18歳のとき、年齢を偽って横浜ドックの船具工となるが、作業中船底に転落し重傷を負う。同年、上京し蒔絵師の徒弟となる。また川柳を始め、井上剣花坊門下の一員となり、「雉子郎」の号で『大正川柳』に参加する。大正3年、講談社の懸賞小説に応募、「江の島物語」が一等に当選。翌大正10年も続いて講談社の懸賞小説に三篇入選。同年暮れ、東京毎夕新聞社に入社。翌年より「親鸞記」を執筆連載する。大正12年、最初の妻赤沢やすと結婚。関東大震災を機に文学に専念する決意を固める。大正14年、講談社『キング』に「吉川英治」のペンネームで「剣難女難」を連載、好評を博す。大正15年、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編に続き、大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」を連載、大衆作家としての地位を固める。昭和4年から5年にかけて幕末動乱の世を舞台にした「貝殻一平」を大阪朝日新聞に、昭和9年、サンデー毎日に「松のや露八」を連載する。昭和8年、「吉川英治全集」(平凡社)全18巻完結。同年8月より翌8年9月まで、大衆文学の研究誌「衆文」を主宰発行する。昭和10年、「宮本武蔵」の連載を開始。昭和12年、毎日新聞の特派員として日中戦争を視察。同年、妻やすとの離婚。池戸文子と再婚する。「宮本武蔵」完結。新聞小説史上かつてない人気を得る。昭和13年、ペンの部隊で漢口作戦に従軍。翌昭和14年、「太閤記」「三国志」を執筆。昭和19年、吉野村(青梅市)に疎開。終戦後、一時執筆活動を休止するが、昭和22年、「人間山水図巻」を『東京』へ発表し執筆活動を再開する。昭和25年、週刊朝日で「新・平家物語」の連載始まる。昭和28年、「新・平家物語」で第1回菊池寛賞受賞。昭和31年、「新・平家物語」で朝日賞受賞。昭和33年、毎日新聞に「私本太平記」を連載。昭和35年、文化勲章受章。昭和52年、東京都青梅市柚木町に吉川英治記念館開館。小説家。

吉川英治
宮本二天の語

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