舟越保武 作品集

長良川画廊

姿とかたちとコトバ―彫刻家・舟越保武の宇宙

若松英輔

 十五年ほど前のことである。気が付けば早朝の新幹線に乗っていて、車窓を眺めていた。あのときなぜ、盛岡に向かったのか今でも理由が分からない。
 目的は岩手県立美術館で舟越保武の作品を見ることだった。伴侶を喪い、生きる意味もまた見失われたように感じられ、眠れない日々が続いていた。彼女の死から半年ほど過ぎた初夏の日だったように記憶している。
 舟越の作品を観ることで、確かめたいと切願していたのは二つ。生きる意味と亡き者の実在だった。
 あのときそう感じていたのではない。理性的というには程遠い行動だった。
 だが帰路、彼の作品に充たされることによって私は、自分が生きる意味も亡き者との関係も見失っていたことを知った。ありていにいえば、私は舟越の作品に救われたのである。

 舟越保武の存在をはっきりと認識したのは二十代の初めで、きっかけは、舟越の創作風景をとらえたNHKのテレビ番組を見たことだった。
 一九八七(昭和六二)年、舟越は脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になり、右手での創作もできなくなる。しかし、舟越は創作をやめなかった。彼は左手で粘土に向きあい作品を作り始める。テレビがとらえていたのも左手で創作する姿だった。
 そこで舟越が体現していたのは、まさしく苛烈というべきもので、芸術家にとって創作とは、たたかいであることを告げていた。他者とではない。自分の宿命とたたかっているように私には感じられた。
 ある日、興奮さめやらぬまま、師である井上洋治神父に舟越の番組のことを話す機会があった。神父は何か深く感じている様子で私の話を聞いていた。神父も番組を見たといい、「舟越さん、すごいな」とだけ言って、あとは言葉を詰まらせていた。
 このときのことは今もときおり、思い返す。舟越の姿に若い私は、饒舌をもって答えたが、神父はそれに沈黙をもって応じた。神父が黙る姿を目の当たりにして、若い私でも、自分が感じるべきことを見過ごしていることは分かった。語り得ないものに出会いそこねていたのである。
 自分の未熟さに改めて気づかされることになったのだが、舟越保武という名前は忘れがたいものとして認識された。
 舟越保武は三十八歳のときに洗礼を受けたカトリックのキリスト者である。きっかけは夭折した息子の死だった。
 舟越と信仰の縁は彼の父にさかのぼる。父は敬虔な信徒だった。しかし、それがゆえに舟越にとっては入信までに時間が必要だったのかもしれない。生前、舟越は父と良好な関係でばかりいたわけではない。すれ違いもあった。しかし、彼が表現者となっていく道程で、亡き父は文字通りの意味における守護者となっていく。
 舟越のエッセイには、死者となった父の助力を得ながら創作した道行きが一度ならず語られている。さらにいえば、父の助けを実感できなければ、彼はどこかで彫刻家であることを諦めていたかもしれない。それほど彼の彫刻家として立つまでの道は険しく、また、死者である父とのつながりは深い。
 今日では舟越保武の名前と作品は、歴史において不動の位置を占めている。それは彼の生涯について詳しい人が多くいることによって保証されているのではない。彼に関する知識や情報をもたない人でも、その作品と対峙するとき、心は動く。まさにそのことによって彼は、真の意味で忘れがたい人になった。

 岩手県立美術館には舟越の代表作のほとんどが常設展示されている。ブロンズばかりではなく、石彫のものもある。舟越には自選の作品集(『舟越保武作品集』講談社)があるが、この美術館はその世界がそのまま、立体的に再現されているような趣きすらある。
 作品集の「あとがき」で舟越は、「見る人の心に、静かに語りかける、そういうものを、作って行きたい。/それがなかなか出来なくて、どうどうめぐりをしている」と書いているが、作品は観るものを静寂のうちに圧倒するちからを宿している。これらの作品を制作していた時期の舟越の彫刻家としての力量は字義通りの意味で至高の領域にすらあったと思う。だが、そのいっぽうで私は、美術館に並べられた作品を観ながら彼の随筆集にある次のような一節を思い出していた。

 私は、ほんとうに貧乏のどん底が続きました。何十年も。しかも、家には子供が六人いて。六人の子供をかかえて、定収入がないんです。どこへも勤めなかったので。
 貧乏で、もう明日の米なんかないし電車賃もない、ということになると、仕事を猛烈な勢いでしました。うんと早く作ったときは、大理石の頭像を二日で作りました。まったく眠らないで、あのヒロポンというのを飲みながら、夜中に睡くてふらふらになると、またヒロポンを飲んで。あれは今は売ってませんけどね。立ちどおしで、四十時間ぐらいもぶっとおしで仕事を続けて、仕上げました。
 それをリュックサックに入れて、バスに乗って、世田谷から数寄屋橋まで行きました。もちろん運送屋をたのめないし、タクシーに乗る金もないんです。(「すきやき(東京芸大彫刻科の最終講義)」『舟越保武全随筆集 巨岩と花びらほか』)

 この一文は、題名にもあるように東京芸術大学の最終講義で話されたことをもとにしている。彼は、ここで、これから芸術家になろうとする人たちに表現の貴さと困難を伝えようとしている。そして、本書にある大理石像もまた、このような状況下で制作されたのである。
 ブロンズを制作するには費用も時間も要する。ここにも彼が石を彫らねばならない理由があった。

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 この像(少女)はどの作品集、図録にも掲載されていない。個展に出品するためでも、依頼主がいて制作されたものでもない。ただ、彼が日々の生活のために作ったからである。だからといって、そこに美が宿らない、というわけではない。「お金がない時に、デッサン一枚でも、買ってもらおうと思って描いたものは、やはり生命がけみたいなせいか、いま見ても割合よく描けていて、古いものを見ると、なつかしく思います」と舟越も同じ一文で述べている。
 この作品は、ある大手の新聞社の経営者の家にあった。もとの持ち主は画廊からの勧めで、これからの彫刻家の作品として購入したのかもしれない。「古いものを見ると、なつかしく思います」との言葉通り、のちに名が知られるようになった舟越が、もとの持ち主の家にこの作品を見に来た、という話も聞いた。
 陶芸家の濱田庄司が、自らの作品は、作ったものであるよりも生まれたものであってほしいということを書いていたが、こうした時期に制作されたものもまた、必死であるなかから「生まれたもの」だったように思われる。先の一文には次のような一節が続く。

 リュックに入れた大理石は、胸のこのへんまでついていて、それを持ってバスに乗るのですから、バスのステップがたいへんに上りにくい。重くてうしろにひっくりかえりそうになるんです。それでも、生きるか死ぬかですから、馬鹿力を出して、乗りました。
 数寄屋橋のバス停で降りて、それからあの日動画廊まで歩きます。あれは二百メートルぐらいのものでしょうが、そのほんとうに遠かったこと。重いものを背負って歩くと(あなた方も知ってるでしょうけれど)、足のうらが痛くなりますね。地面に足がめり込むような気がします。

 大理石の作品は本当に重い。「重くてうしろにひっくりかえりそうになる」というのもたとえなどではない。「少女」が手元にやってきて、それを持ち上げようとしたが、微動だにしない。舟越の文章にはいっさいの誇張がない。
 バスを降りても困難は続く。画廊までの道を歩くとき、「足のうらが痛くなり」、「地面に足がめり込むような気が」する。容易ならぬ試練だったのだろうが、それを経たからこそ花開くものが彼の作品にはある。さらにいえば、私はここにひとりの彫刻家の精神が開花したようにすら感じる。  当時の彼には自分の作品を直接買ってくれるつてなどない。販売は画廊に委託するほかない。文章はさらに続く。

 やっと日動画廊について、画廊のおやじさんの前に、「これ買ってください」といって、彫刻をリュックから出すんです。
 そうすると、むこうは、もう様子を見てわかるんですね。ああ、この人は貧乏して困っているんだから、この程度でいいなという、顔でわかるんですね。私は固唾をのむ気持ちで、とても緊張するんです。
 それで、その当時の一万円。百円札しかないときだから、百枚です。それを一枚、一枚数えて「では、これで」と渡してくれるんです。
 敵は安く買ったと思ってるでしょうけれど、私にとって、この一万円というのは、たいへんな金なんです。とび上がるようで、笑いそうになるのを我慢して、「まあ、仕方がないでしょう」。…… (笑い)
 そのお金をポケットに入れたとたんに、何だかどきどきして落ち着かないんです。すぐ画廊から出て、持ったことのない大金を持って。その当時は、一万円あれば一カ月は食えたんです。

 芸術を見る者は芸術家の労苦を知る義務などない。だが、芸術家の作品だけでなく、内村鑑三の言葉を借りれば、人間の生涯もまた、「後世への遺物」たり得る。
 真摯な労苦には意味がある。このころの舟越の作品に刻まれているそれも、人生の岐路にある者にちからを与えるものを宿している。
 同時代には舟越のほかにも一時代を築いた彫刻家はいる。しかし、彼のように石を彫れる人はけっして多くない。もし、舟越が石彫を体得していなかったら、先のように生活していくこともできず、どこかで道を変えていたかもしれない。「石の音」と題するエッセイで彼は、石彫との出会いにふれている。

 当時の美術学校には石彫の授業などなかった。あの頃、石彫をやる人は日本に、二、三人もいたろうか。その石彫をやる人たちは有名な人ばかりで、私には教わりに行く勇気がなかった。
 そんなわけで、私は近くに住む墓石屋の親方のところへ行って教えを乞うた。

 ここでの「美術学校」は、岡倉天心が創設に携わり、高村光太郎も学んだ東京美術学校、今日の東京芸術大学である。ここでは詳論できないが、舟越と光太郎のつながりは深く、決定的である。光太郎が訳した『ロダンの言葉』によって舟越は彫刻家を志す。舟越は光太郎の作品にふれ「高村さんの彫刻には、高い詩魂が直に、木や塑像に吹き込まれている」と書いているが、それはそのまま舟越の作品にもいえる。むしろ、彫刻もまた、詩情の表現であるという、この一点こそ、彫刻家・舟越保武の本質だといってよい。
 舟越は、天心、光太郎の血脈を受け継ぎながら彫刻を学び始めるのだが、彼が真に師事したのは学校の教師ではなく、墓石屋の親方だった。「私の師匠はただ一人、石屋の親方であった」と舟越は書いている。
 本書に収められたもう一つの「少女」は、こうした道程を経て生まれた。この作品もおそらく、舟越がリュックで担ぎ、バスに乗って画廊に売りに行ったのだろう。

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 石工の弟子であることは彼の誇りではあっても何ら恥じることではなかった。先に見た最終講義で彼は、中世ヨーロッパの教会に置かれている石彫の作品にふれ、「あの頃の彫刻を作った人たちは、今でいう彫刻家ではない、芸術家ではないんですね。あれは彫刻を作る石工、石の職人なんです」と語っている。さらに「私は彫刻をやるんだったら、十三、四世紀あるいは、もっと前に生まれたかった。今はそういう気持ちで居ります」とまでいうのである。
 芸術家ではなく、石の職人になる。職人だからこそ生みだせる美があることを舟越は疑わない。ここに彼と民藝の伝統が交差する場が生まれる。名を手放そうとする者に、天は美を託すというのだろうか。  石で作品を作る、というのは舟越の場合、表現としては適切ではない。彼には石から像を彫り出すという実感があった。

 不定形の荒石を前にして、この石の中に、自分の求める顔が、すでに埋もれて入っているのだと自分に思い込ませて、仕事にかかるのだが、石の中にある顔を見失うまいとする心の緊張があった。(「石のかけら」)

 像が眠っている石と出会う。ここから彫刻は始まる。彫刻とは新しいものを作り出すことではなく、不可視な姿で石に内在しているものをよみがえらせる営みだというのである。舟越にとって創作とは、かたちを変えた発見だった。
 どんなに長い時間を費やしても石彫の場合は小さなミスが命とりになる。当然ながら石を彫る手は慎重になるのだが、舟越には別種の実感もあった。「私の経験では、彫り過ぎたことは一度もない。むしろ彫り足らない」(同前)と彼はいう。「石の中にある顔」を彼は、目とは異なるもう一つの眼ではっきりとらえているのである。

 表現者にはその生涯にいくつかの転機となるような時期がある。それは後世のものが後から付した目印ではないかというかもしれないが、そうとも限らない。全体を把握できなくても、何か無視できない出来事が自分に近づきつつあることを本人が感じることがある。「原の城」(一九六四)はそうした時期の到来を告げるものとなった。
 「原の城」は「はるのじょう」とも読む。島原の乱が起こった場所である。作家の石牟礼道子は、その音を受け継ぎ『春の城』と題する長編小説を書いている。
 島原の乱が起こったのは一六三七年である。当時、キリスト教は禁じられていて、江戸幕府はそれを弾圧し、城にこもった人たちをすべて鎮圧した。
 蜂起した人たちは反乱を起こしたかったのではない。自らの信仰を守りたかっただけである。さらにいえば、彼らにとって信仰とは、自らを育てた親や先人たちから受け継いだものであり、祈りとは、自らのためにするものである前に、亡き者たちの安寧を願って行う営みだった。信仰を棄てるとは、亡き者たちとの関係の断絶を強いられることにほかならなかったのである。
 岩手県立美術館を訪れてから数か月後、私は原の城を訪れた。人はいない。城跡の表示はあるが、淡白なもので格別、心を打つようなものではなかった。そして、今日のキリスト教会がこの場所で起こったことにほとんど関心を寄せていないことも伝わってくる、そんな場所だった。  舟越がこの場所を訪れたときも状況は変わらない。「天草の乱でキリシタンと農民三万七千人が一人のこらず全滅した原の城趾へ行ったとき、この近くの町には、現在でも一人のクリスチャンもいないと聞いた。/静かな海を背にひかえた原の城趾は、睡気を誘われるように長閑であった」(「原の城」)と舟越は書いている。そのいっぽう、彼は容易に否定しがたい心情にも突き動かされていた。

 それが明るく静かであるだけに、かえって私には、天草の乱の悲惨な結末が無気味に迫って来る思いがした。鬼哭啾々という言葉そのままのようであった。私が立っている地の底から、三万七千人のキリシタン、武士と農民の絶望的な鬨の声が、聞こえて来るような気がした。(同前)

 このときから三年ほどして彼は、武士の頭部を象った作品を二つ制作する。その一つが本書に収められている(「原の城(頭部)」)。

舟越保武 原の城(頭部)原の城(頭部)作品詳細へ

 最初の「原の城」から七年後、同じく「原の城」と題される二メートルほどの武士の立像が作られる。一九七一年のことである。この立像が舟越の代表作の一つであることは異論を俟たない。そして、この作品を機に彼にとっての創作は真の意味における鎮魂の営みにもなっていく。
 美術館で「原の城」の前に立ったときも、また、「原の城(頭部)」を見つめていても私は、恐れに似た感情を抱くことはなかったが、恐れとは異なる畏れからは逃れることはできなかった。亡き者たちは恐怖ではなく、畏怖の対象であることを私は舟越の作品に学んだ。こういってもよい。恐怖ではなく畏怖の情を抱くとき、亡き者たちは生者である私たちの守護者であることを知る。

 ある日、美術商から「LOLA 1974」が入手できそうだという連絡があった。メールには画像も添付されていた。それを見たときの驚きを忘れることができない。何と凡庸な作品かと思ったのである。
そのときは購入を断った。美術商はそれでも一応、現地に行き、確かめてみるといった。

舟越保武 LOLA 1974LOLA 1974作品詳細へ

 数日後、現場から、問題はないと思うと連絡があった。作品を観ることになり、さらに驚いた。写真とはまったく違う印象の作品がそこにあったからである。もちろん、物体としては同じである。だが、眼に映る姿がまったく異なっていた。
 この作品は、舟越自選の作品集をはじめ、主だった図録には収められている。実物を見たあと、家に帰り、作品集を繙く。たしかにこの作品なのだが、それでもある違和感をぬぐいきれない。それほど実物を前にしたときの印象は強く、私の深い場所を動かしていたのである。
 ここで問い直したいのは、舟越の作品を撮影した写真家の力量ではない。彫刻という芸術と写真の関係、そして彫刻を「みる」という経験の真義である。
 短くない期間、自分を貫く違和感を言葉にすることができなかったが、あるとき、雷鳴に打たれるようにその本質を認識できたように思った。舟越の作品を目の当たりにした私は肉眼というよりも哲学者のプラトンがいう「魂の眼」で観ていたのである。こういったほうが精確かもしれない。舟越保武の作品は、ふれる者に目を開くことを求めるのではなく、昔の人たちが心眼と呼んだ「眼」を開くことを強く促す。
 作品集で作品の差異を確かめようとするとき、はたらいていたのも「眼」ではなく「目」である。このことに気が付いて作品集と向きあい直したとき、写真からもまた、異なる印象を受けとることができた。
 作品を目で見るのではなく、眼によって観ることができるとき、人はそこに単に見ることとは性質を異にする、観えてくるという道程を経験する。観えてくるなかで、かたちに秘められた意味、かたちの深秘を認識するのである。
 舟越のエッセイを読んでいると「後ろ姿」という言葉が、印象的な場面で用いられる。たとえば、次の一節もそうしたものの一つだろう。

 母や姉が髪を洗うとき、さいかちの莢をもみほぐして泡立てて使っていた。これで髪を洗うと、洗ったあとの髪に艶が出て、石鹸よりこの方がいいと言っていた。
 薄暗い台所の流しの前で、姉が肌脱ぎをして、長い黒髪を洗っていた。
 その後ろ姿のうなじから、腕の白さがほのかに浮き出て見えて、美しいと思った。
 少年の頃の私の、まばゆいような思い出として残っている。

 「LOLA 1974」(一九七四)だけではないのだが、舟越の作品は後ろ姿がよい。この作品の場合は、ことによい。
 人は表情を作ることもできるが、後ろ姿を作ることはできない。そこにはその人が生きたこと、今、生きつつあることが静かに現れ出るのかもしれない。

 彫刻家は、最初から予定された原寸大の作品を作るのではなく、「エスキース」と呼ばれる素案の作品を作ることがある。本書に収められた「道東の四季―春(エスキース)」(一九七六)もその一つだ。

舟越保武 道東の四季―春(エスキース)道東の四季―春(エスキース)作品詳細へ

 完成されたこの作品「道東の四季・春(以下:春)」(一九七七)は北海道・釧路の幣舞橋に置かれている。
 「春」とエスキースのあいだには、像の大きさのほかにも著しい差異がある。「春」の女性は衣服をまとっているが、エスキースはそうではない。
 服がないのはエスキースだからで、作品を練っていくうちに作者が服をまとわせた、と思うかもしれないが、おそらく事実は違う。
 舟越とともに近代日本の彫刻界を牽引した人物に高田博厚がいる。彼の業績を後世に伝える仕事に従事している人と高田の作品を味わう機会があった。舟越の「春」のような大きな女性の立像の前に来たとき、彼はこういった。
 「本当はこの像は衣服をまとっていなかったのです。しかし、官庁からの希望であとで服を着せることになったのです。」
 この言葉を聞いてすぐに思い浮かんだのが舟越のエスキースだった。舟越にとってエスキースはいわゆる試作品などではない。それは完成された作品になる可能性を内包した何ものかなのである。
 先にふれた「原の城(頭部)」も、立像のエスキースであるともいえる。だが、それは明らかに独立した美のうつわになっている。
 「春」のエスキースの場合、この傾向は著しい。「春」の完成はエスキースにこそある、といってもよい。舟越は自選の作品集にも「春」とそのエスキースの両方を収録している。このことからもこのエスキースが、単なる素案以上のものであることが分かる。
 エスキースの可能性は本書の「渚」にもいえる。この作品の完成品は一九八六年に制作され、北海道の釧路の水産センターに置かれている。このエスキースは「春」の経験を踏まえてなのか、衣服をまとったかたちで作られている。この作品にふれたとき、私は柳宗悦が、詩人で画家のウィリアム・ブレイクをめぐって書いた言葉を想い出していた。

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 彼にとって最も切実な世とはこの仮象の世界ではなかった。事象の奥底に動き躍る実在の世界そのものだった。彼にとって見えるものは見えないものの衣だった。(『ウィリアム・ブレーク』『柳宗悦全集 第四巻』)

 同質の認識は舟越にもあったように思われる。衣は体を覆う。しかし、そのことによってその人間の本質は、内面にあることが、いっそう強く表現され得るのである。

 舟越保武は現代日本を代表する彫刻家であるだけでなく、優れた文章家でもあった。あるエッセイで舟越は、代表作の一つ「病醜のダミアン」にふれ、「私はこの像が私の作ったものの中で、いちばん気に入っている」と書いている。
 ダミアン神父はベルギー人だが、思い立って、ハワイのモロカイ島へと赴く。当時、ここにはハンセン病を患う人たちが隔離されていた。この病は、もともと感染しにくく、今日では完全に治癒するが当時は常識も状況も違った。ダミアンは、彼らとともに生きることを決意する。
 島での年月を重ねるうちに彼自身もまた、同じ病を背負うようになる。舟越が作品にしたのは、若いダミアンではない。病という試練を生きている彼である。舟越はダミアンの姿に美醜を超えた美を感じる。舟越はこの作品の製作にいたった動機をこう書いている。

……私はこの病醜の顔に、恐ろしい程の気高い美しさが見えてならない。このことは私の心の中だけのことであって、人には美しく見える筈がない。それでも私は、これを作らずにはいられなかった。(「病醜のダミアン」『舟越保武全随筆集 巨岩と花びらほか』)

 この一文を読んだ二十代の中頃の私は、舟越の作品やダミアン神父に関する本を読むだけでは飽き足らず、この神父の面影を追って、ひとりでモロカイ島にまで行った。オアフ島、ハワイ島は観光客でにぎわっていて交通の便もよい。モロカイ島は違った。パイナップル農園が数多くあり、仕事で訪れる人はいても観光客はほとんどいなかった。ダミアン神父は二〇〇九年に「聖人」になり、今ではおそらく彼を記念する場所も整備されているのだろうが、当時は事情が違った。現地でタクシーの運転手にダミアン神父にゆかりのある場所に案内してほしいと頼んだときもまさに奇妙な客だと思われているのがはっきりと分かった。彼を偲び、この島を訪れる人は多くなかったのである。
  美醜を超えた美、柳宗悦のいう「不二の美」を表現するには巧みな技巧だけでは充分ではない。そこには精妙なる業がなければならない。多くの表現者は技巧を学ぶが、真の芸術家は「業」を深める。離れ業、神業というときのそれである。
 精妙という言葉がある。それはどこまでも精緻でありながら霊妙であるということだろう。右手が不自由になるまでの舟越の作品は、精妙という言葉がふさわしいものだった。だが、彼の左手から生まれてきた作品は、まったく異なる印象を与える。それらには静謐な炎と強靭な光とが併存しているのである。
 この時期を代表する作品が「ゴルゴダ」である。この作品は彫刻家舟越保武の精華であり、同時にそれまでの作品にも新しい意味を付与するはたらきさえ宿している。両手で生み出されてきた彼の作品群も、「ゴルゴダ」とともにあることによって新生した。「病醜のダミアン」のような精妙な作品が宿していた光は、神聖なる暗夜とともにあることで、その光の次元をいっそう深いものとしたのである。この作品が生まれることがなかったら歴史は、舟越保武を今日とは異なるように記憶していただろう。

舟越保武 ゴルゴダゴルゴダ作品詳細へ

 ゴルゴダは、イエスが十字架につけられて処刑された場所である。この作品で象られているのも、ほどなく亡くなろうするイエスなのである。
 ある人は、ここに苦しみと痛みを感じるかもしれない。だが、舟越の実感はそれに終わらないものだった。
 この彫刻を急いで見てはならない。わずかな時間でもよい。それと対峙するとき、目に映る苦しみと痛みの奥に、それとはまったく質を異にする何かを感じるだろう。この像を正面からだけでなく、背後から、そしてその横顔を見たとき私は、文字通りの意味で動けなくなった。
 これまで幾度、『聖書』を繙き、イエスの生涯をめぐって考えを深めたか分からない。しかし「ゴルゴダ」は、言葉では引き受けることのできないものを姿と「かたち」によって表現している。
 ある人はそこにあるものに希望と名を与え、別な人はゆるし、あるいは愛と呼ぶかもしれない。
「ゴルゴダ」のイエスは、私たちを否定しない。その存在を絶対的に肯定する。そしてもし、お前が苦しいというなら、その重荷を私がともに担おうと、観る者に静かに語りかけるのである。
 「ゴルゴダ」が舟越の代表作である。しかし、これを完成させた当時、舟越にそうした実感があったわけではない。倒れたあとに行われた個展のパンフレットに寄せた一文で舟越は、こんな言葉を残している。

 出来ることなら、うす暗い穴の底で何もせずにボケッとしていたいと思う私。寝たきりのボケ老人になってもいいのか、とそれを叱咤するもうひとりの私自身。全くもって私の頭の中はてんやわんやの日々であった。その上、六十年もの間、殆ど毎日続けてきた素描や彫刻も自分の世界から捨て切れない。それで家族や友人に支えられて、時にふれ、折にふれて車椅子に乗って仕事をしている。勿論なれない左手で。だから出来はよくないのは当然だ。なんともたどたどしい。そのぶきっちょな仕事を友人達は「武さん、却ってよい作品が出来たじゃないか。気取ってなくていいや。荒削りなところがいいよ。」などとおだててくれる。全く持つべきものは友達だ。こんな訳で、半人前ではあるが、とにもかくにも少しづつ仕事を続けている私の日々である。(「舟越保武 彫刻・デッサン’90」、ギャラリーせいほう)

 ここに記されていることは当時の実感なのだろう。彼は自信をもって作品を世に送り出したわけではなかった。だが、そこにあったのは、この国の彫刻の歴史に不滅のしるしを残す作品だった。

 この図録の執筆と今回の展覧会の準備のために、作品をもう一度みてほしいと画廊の店主から連絡があった。画廊に着くと、本書に収められた舟越の作品が半円を描くように並べられていた。あの空間に足を踏み入れたときに感じたものを私は、今も鮮明に思い出すことができる。それは美の経験というより美の衝撃と呼ぶべきものだった。
 美は一つの宇宙を現出させる。そして、それは観る者のうちにも宇宙空間とは異なる「宇宙」が内在することを想い出させる。さらに、このとき美は、言語の姿をした言葉とは異なる、意味そのものであるコトバとして、観る者に人生の秘義を告げ知らせもするのである。

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