内藤湖南 Naito Konan(Naitou Konan)

慶応2年(1866)~昭和9年(1934)

慶応2年8月17日、九鹿角郡毛馬内(秋田県鹿角市)に生まれる。父内藤調一は南部の支藩櫻庭家の家臣。明治3年母死去。この年四書の素読を父に教わる。明治6年兄死去。明治14年明治天皇東北巡幸奉迎文(漢詩)を作る。明治16年3月秋田師範学校中等師範科入学。明治18年7月秋田師範学校高等科卒業。同年北秋田郡綴子小学校主席訓導となり校長職も兼ねる。明治20年8月訓導を辞職し上京。大内青巒の主宰する『明教新誌』の記者となり、雑誌『萬報一覧』、『大同新報』の編集をする。明治33年9月志賀重昴の推薦により愛知県岡崎町(愛知県岡崎市)に創刊した『三河新聞』の主筆となる。同年11月帰京。徳富蘇峰の民友社と並び明治20年代を代表する政治結社であった『政教社』(主筆・志賀重昴)の雑誌『日本人』の記者となる。明治24年6月より『亜細亜』(日本人を改名)の編集にあたり三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛の論説を代筆をする。明治26年1月政教社を退社し『大阪朝日新聞』の客員(実質的な主筆)であった高橋健三の私設秘書になる。明治27年7月『大阪朝日新聞』の記者となる。明治29年4月から9月まで『關西文運論』を同紙に連載。同年8月同郷の田口郁子(18歳)と結婚。同年9月松方・大隅内閣の書記官長となった高橋健三の内閣政綱の起草を手伝う。同年12月『大阪朝日新聞』を退社。明治30年1月『近世文學史論』(關西文運論を改題)を刊行。同年4月『台湾日報』の主筆として台湾へ赴任。同年6月『諸葛武侯』、『涙珠睡珠』を刊行。明治31年4月『台湾日報』を退社し帰国。『萬朝報』の論説記者となる。同僚に幸徳秋水、堺怙川、内村鑑三がいた。明治32年9月より11月中国遊歴、羅振玉、厳復、方若、文廷式、張元斎らに会う。明治33年4月『萬朝報』を退社。同年6月『燕山礎水』を刊行。同年7月史学考証に関する最初の『明東北疆弁誤』を『歴史と地理』に発表。同月『大阪朝日新聞』に再入社、中国問題に関する論説を担当する。明治34年4月京都帝国大学付属図書館を訪ね、はじめて島文治郎、狩野直喜、織田万らに会う。同年、政界出馬を高橋本吉に勧められるが断念する。明治35年10月特派員として満州及び周辺を視察。『游清記』を記す。視察中奉天で『満蒙文蔵経』を発見し、文溯閣の『四庫全書』及び『丁氏八千巻楼』の蔵書等を閲覧。北京で劉鉄雲、曹廷杰らに会う。明治36年1月帰国し対露主戦論を主張。明治40年10京都大学文科大学創設にあたり史学科講師となる。(始め学長の狩野亨吉より史学科教授を要請されるが、学歴を理由に法制局が難色を示す。)明治42年9月教授となり東洋史学第一講座を担当。同年11月羅振玉から敦煌文献発見の情報を得、同年12月朝日新聞に『敦煌石室の発見物』を発表。大正13年『日本文化史研究』、『新支那論』刊行。大正13年7月渡欧。大正14年2月帰国。大正15年1月帝国学士院会員。同年8月京都大学教授を定年退官。昭和9年6月胃癌により京都府相楽郡加茂町の恭仁山荘で死去。『内藤湖南全集』(全14巻)がある。

内藤湖南 游欧帰舟絶句
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内藤湖南 秋懐七絶
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内藤湖南 景印正徳本三国遺事序
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内藤湖南 詩書
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内藤湖南 蘇玉局七絶
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内藤湖南 詩書
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内藤湖南 小林仁三郎宛書簡
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