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21.小原鉄心 墨梅と詩書 双幅 合箱

紙本水墨12.4×145.2
22.小原鉄心 詩書 合箱

紙本水墨35.5×134
23.小原鉄心 菱田海鴎 藤井竹外他合作 四君子図 合箱

絹本水墨35.6×114
◆小原鉄心・1817~1872 大垣に生まれる。大垣藩の重臣。藩政の改革。大垣藩を尊皇に導く。明治5年に没。
◆菱田海1鴎・1836~1895 大垣市久瀬川町に生まれる。菱田毅斎の六男。藩主の侍講。鳥羽伏見の戦いで小原鉄心の使者として斬殺の危機に遭遇するが一詩を賦して免れる。明治28年に没。
◆藤井竹外・1807~1866摂津高槻藩(大阪高槻)の武士の家に生まれる。頼山陽に学び、梁川星巌、広瀬淡窓、森田節齋らと親交。詩集に『竹外二十八字詩』など。高槻藩儒。慶応2年に没。
24.成木星洲 飲中八仙図 共箱

絹本著色49×141.8
◆成木星洲・1863~1935 恵那郡中津川村中村(中津川市)に、素封家成木来助の長男として生まれる。明治13年に京都に出て、田能村直入に入門、南画を学ぶ。また漢詩を林雙橋に、和歌を市岡殷政に学ぶ。明治39年、名古屋に移住。昭和10年に没。
25.村瀬藤城 詩書(観雪) 合箱

紙本水墨29×135
26.村瀬藤城 詩書 合箱

紙本水墨58×132
27.村瀬藤城 詩書 合箱

紙本水墨41.6×121.5
◆村瀬藤城・1791~1853 美濃上有知村(美濃市)に生まれる。梅花村舎を開き美濃一円に門弟数百人を持つ。頼山陽とは盟友。美濃文壇の重鎮。経世家。嘉永6年に没。
28.仙厓 席田山(むしろだやま)の玉拾い
二首 合箱

紙本水墨33.6×26.4
◆仙厓・1750~1837 仙厓は、美濃国武儀郡(岐阜県関市)に生まれたことは確実であるが、その詳しい出自はわかっていない。(武儀郡谷口の井藤甚八の次男として生まれたとするのが有力とされる。)11歳のころ清泰寺(美濃市)の空印円虚のもとで出家得度。19歳の 時、武蔵国(横浜保土ヶ谷)の東輝庵の月船禅慧の弟子となる。天明元年32歳の時に月船が遷化し、東輝庵を辞し諸国を行脚、天明7年38歳の時に妙心寺塔頭雲祥院、大珠院の推挙で博多聖福寺第百二十二世住持盤谷紹適の弟子となることを承諾。翌天明8年博多へ招かれ、寛政元年聖福寺の第百二十三世住持となる。(以降、文化8年62歳まで、聖福寺住持を務める。)寛政10年本山妙心寺より瑞世之儀(臨済禅僧最高位の衣である紫衣を受け本山の住職になる資格を得ること)を辞退。(以降、二度の勧めも辞退する)文化8年法席を弟子の湛元東夷に譲り引退、翌文化9年塔頭幻住庵内の虚白院へ移住、隠棲する。天保8年に没。
29.各務支考 支考像 木彫 辻寿山作

高さ9㎝
30.各務支考 天然木如意
千葉兎月箱 虚白旧蔵品

長さ32㎝
31.各務支考 書簡 合箱

紙本水墨(台紙寸法)23×92.4
◆各務支考・1665~1731 山県郡北野(岐阜市北野)に生まれる。5歳で父と死別し同じ北野村の大智寺に入り僧籍となる。播磨の盤桂和尚に参禅するも十九歳で還俗、宇治山田に隠遁、医を業にする傍ら、岩田凉菟に俳諧を学ぶ。元禄3年、内藤丈草、乙州と同道し近江膳所の無名庵に芭蕉を訪ねる。元禄4年、芭蕉に従って江戸へ下る。翌5年、東北松島の旅に出、「葛の松原」を著す。芭蕉没後、蕉風俳諧を広め、俳諧論を説きながら、広範囲に活動し、師の追悼事業も大々的に行う。その後、芭蕉の後継者として、美濃を中心に多くの門人を擁し、獅子門美濃派と呼ばれる一大俳諧勢力を築く。享保16年に没。
32.大野是什坊 仙石廬元坊
田中五竹坊 野村白寿坊
大江丸 横井也有
内藤東甫 建部涼袋他
巻物 合箱

紙本(巻物全寸)730×34.3
33.国井化月坊 青木奚花坊他 美濃派関係書簡一括り

◆国井化月坊・1793~1870 不破郡岩手(垂井)竹中家の家臣。芭蕉句碑を岩手に建立。俳号に、梅仙、梅故、春香園、山戸亭など。 著書に「誉の扇」「秋の風集」「若緑集」など。美濃派以哉派15世。明治3年に没。
34.広瀬惟然 短冊「みしか夜や~」 合箱

紙本水墨5.8×36
◆広瀬惟然・1648~1711 武儀郡関村(関市)に生まれる。少年の頃名古屋の富豪の養子となるが、家業傾き妻子を捨て関に隠遁。40歳で芭蕉に入門する。芭蕉没後、芭蕉の遺句と念仏を「古池やかはず飛びこむみずの音、なんもうだ」のように踊りなが誦して、各地を行脚した。正徳元年に没。
35.仙石廬元坊 句入り懐紙 額装

紙本水墨24×16
36.仙石廬元坊 画賛「何として~」 合箱

紙本水墨17.5×126.8
37.仙石廬元坊 短冊
野村白寿坊紙中極め 合箱

紙本水墨(台紙寸法)22.3×58
◆仙石廬元坊・1688~1747 美濃国本巣郡北方(北方町)に生まれる。24歳の頃各務支考に入門。享保12年から13年にかけて三越、加賀の旅に出て「桃の首途」成る。同15年3月、近畿から九州にかけて旅に出る。主な編書に「文星観」「其日歌仙」「花供養」「三つ物 拾遺」など。俳号に、里紅、茶話窟、茶話仙など。美濃派3世。延享4年に没。
38.田中五竹坊 二見形文台 五条式 合箱

39.田中五竹坊 俳句一行 合箱

紙本水墨14.5×116.5
◆田中五竹坊・1700~1780 美濃国本巣郡北方(北方町)に生まれる。各務支考、仙石廬元坊に俳諧を学ぶ。美濃派第3世。次の道統を安田以哉坊に譲るが、両者の間に論争が起こり、以降美濃派は以哉派と五竹坊の門人河村再和坊に発する再和派(北方派)に分裂する。主な著書に「入梅の後」「七めぐり」「十二夜話」「帰童仙句評」など。俳号に五筑、琴左、帰童仙など。安永9年に没。
40.田中五竹庵 俳句一行 紙箱

紙本水墨98×28
◆田中五竹庵 1776~1830 本巣郡芝原(北方町)に生まれる。俳号に子琴、文阿坊など。美濃派再和派10世。天保元年に没。