岐阜 郷土の先人遺墨展目録 5

平成20年2月9日(土)〜2月15日(金)
総作品数193点中  82〜1011 2 3 4 5 6 7 8 9 10

82.杉山三郊 堀田秀叢 合作 合箱

杉山三郊  堀田秀叢

紙本淡彩43×123.3

◆杉山三郊・1855〜1945 安八郡神戸町に生まれる。東京商科大学(一橋大学)、早稲田大学で書を教える。漢学者で書家。 ◆堀田秀叢・1894〜1954 長野県諏訪市に生まれる。池上秀畝門下。主に日展で活躍。日本画家。昭和29年に没。

83.大野伴睦 書 額装

大野伴睦 書

紙本水墨127×33

◆大野伴睦・1890〜1964 山県郡谷合村(美山町)に生まれる。衆議院議員当選13回。衆議院議長、自由民主党副総裁などを務める。保守政界の重鎮、代表的な党人派政治家として活躍。昭和39年に死去。

84.大橋万峰 猛虎図 合箱

大橋万峰 猛虎図

絹本彩色49.5×126.5

◆大橋万峰・1860〜1943 大垣市に生まれる。大橋翠石の兄。 昭和18年に没。

85.大橋翠邦(翠峰)猛虎図 合箱

大橋翠邦(翠峰)猛虎図

絹本彩色50.5×49.2

◆大橋翠邦・名、研一。大阪府河内長野市汐ノ宮の人。大橋翠石の弟子。翠石の長男英夫の妻の父。

86.佐藤翠渓 月下猛虎図 合箱

佐藤翠渓 月下猛虎図

絹本彩色41.3×117.7

◆佐藤翠渓・1884〜1926 大垣市に生まれ、岐阜市春日町に住む。山田松渓、小森呉橋門下。大橋翠石に私淑。昭和15年に没。

87.高木美石 狸図 合箱

高木美石 狸図

絹本彩色42×125

89.高木美石 鍾馗図 紙箱

高木美石 鍾馗図

絹本水墨30.7×133.5

90.高木美石 金魚図 合箱

高木美石 金魚図

絹本水墨26.5×122

55.000円

◆高木美石・1886〜1947 養老郡多良村(上石津町)に生まれる。大橋翠石に私淑し独学で日本画を学ぶ。昭和22年に没。

91.加納鉄哉 水取図 共箱

加納鉄哉 水取図

紙本彩色28.5×118

92.加納鉄哉 獅子舞遊び 合箱

加納鉄哉 獅子舞遊び

絹本彩色39.7×116

93.加納鉄哉 七福神 合箱

加納鉄哉 七福神

絹本彩色42×106.5

◆加納鉄哉・1845〜1925 厚見郡岐阜本町(岐阜市)に生まれる。本名光太郎。少年時代、父より南画や彫刻の技法を学んだ。安政5年、長良の崇幅寺に入る。文久3年、伊深の正眼寺に転じ雪澤紹璞に師事。明治元年還俗し、以後七年間諸国を漫遊しながら、絵画、彫刻、鉄筆の研鑽に励む。明治7年、東京に出て彫刻を本業とした。明治14年、第二回内国勧業博覧会で妙技賞牌三等受賞。明治21年、東京美術 学校設立に際し教授に任命されるが、翌年自ら学校を退く。晩年奈良に住み、「最勝精舎」を設け、正倉院、法隆寺の宝物の模刻など制作に没頭する。鉄哉は早くから日本の古美術に造詣を持ち、フェノロサ、岡倉天心らの古美術保護活動にも貢献した。大正14年に没。

94.西尾楚江 葡萄図 紙箱

西尾楚江 葡萄図

紙本水墨30.5×123

◆西尾楚江・1871〜1938 恵那市長島町に生まれる。本名、玉次。京都府画学校を中退し、四条派の幸野楳嶺に学び、後、久保田米僊に入門する。明治23年、米僊とともに東京に移住。明治30年、第一回全国絵画共進会で三等褒状、明治32年、同展で二等褒状などこの頃 精力的に作品を発表する。明治37年、恵那に帰郷。大正5年、岐阜で画会を開催。日本画家。昭和13年、恵那市にて没。

95.水野柳人 水踊る 共箱 二重箱入

水野柳人 水踊る

絹本彩色50.5×44

96.水野柳人 鮎図 色紙 額装

水野柳人 鮎図

紙本彩色24×27

97.水野柳人 蛍画賛 合箱

水野柳人 蛍画賛

紙本淡彩43×27

98.水野柳人 絵入り手紙 紙箱

水野柳人 絵入り手紙

紙本淡彩39.5×27

◆水野柳人・1873〜1959 郡上八幡町に生まれる。鮎の柳人として知られる。商家の出身の旦那衆で、絵画のほかに俳句を嗜み、茶の湯に精通した風流人。谷崎潤一郎、柳宗悦、菊池寛、大仏次郎ら多くの文人墨客と交わる。昭和34年に没。

99.玉舎春輝 白梅に小禽図 合箱

玉舎春輝 白梅に小禽図

紙本彩色29.5×133

100.玉舎春輝 香魚 共箱

玉舎春輝 香魚

絹本彩色26.6×128

101.玉舎春輝 雪中金閣図 共箱 二重箱

玉舎春輝 雪中金閣図

絹本彩色42.7×130

◆玉舎春輝・1880〜1948 大野郡清見村下切(高山市上枝町)に生まれる。幼年、吉城郡古川村(古川町)の玉舎家の養子となる。明治32年、京都に出て原在泉に入門、後、山本春挙門下となる。明治42年、第3回文展に初入選。以後、文展を舞台に活躍するが、大正8年、文展が廃され帝国美術院が設置されると日本自由画壇の創立に参加する。以後官展を離れ自由画壇に発表の場を移す。昭和14年、川北霞峰、 上田萬秋らと橙青社を結成する。日本画家。昭和23年に没。
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