宮島詠士 Miyajima Eishi

慶応3年(1867)~昭和18年(1943)

山形県米沢猪苗代片町に生れる。名を吉美、通称大八。父は米沢藩士宮島誠一郎。5歳の時父母と上京、日本橋に住む。明治7年(1874)、平河小学校入学。11歳より勝海舟の門に入る。明治14年(1881)、興亜学校に入学し中国語を学ぶ。翌年東京外国語学校に転入するが二年後退校。明治20年(1887)、北京に渡り、保定の蓮池書院に張廉卿をたずねて門人になる。明治24年(1891)、帰国し、翌年保科よしと結婚。半年後に西安の張裕釗のもとへ向かう。明治27年(1894)、張裕釗が没すると帰国。明治26年(1895)、東京帝国大学文学部講師に就任。平河町の自宅に詠帰舎を開設。明治28年(1897)、東京高等商業学校附属外国語学校講師に就任。翌年詠帰舎を拡張し善隣書院とする。(後の明治37年、大正6年に新学舎を建設する)同年東京帝国大学文学部講師を辞す。明治33年(1900)、東京外国語学校講師に就任。明治38年(1905)勲六等瑞宝章を受章。大正6年(1917)一水会を結成。昭和10年(1935)、満州国皇帝溥儀に謁見し師となることを請われるが固辞する。昭和15年(1940)、多年に渡る教育への功績により文部大臣より表彰される。昭和16年(1941)『続急就篇』刊行。腸疾患のため死去。正六位に叙せられる。享年77歳。

《ふりかえると、私が初めて宮島先生を代々木の私邸にお訪ねしたのは、昭和十年の秋であった。先生は七十歳、私はまだ三十歳をようやく越えたにすぎない若輩である。当時、成蹊学園の教員をしながら、すでに私は書家となることを志していたが、先生が書家を嫌っておられることを初めて知った。先生はあくまでも学者であり、思想家であり、真の国士であった。弟子をとるでもなく、人に見せるでもなく、全く自己に沈潜せんがために筆を執るのが、宮島先生の書であった。あるとき、私が展覧会出品を意図していることをふと漏らしたところ、先生は心もち表情を変えられて、自分の人格がこんなに立派だと君は人に見せることができるのか、そんなつもりで君は私を訪ねたのかと、静かに説諭された。静中に秘められたそのときの迫力を、私はいまだに忘れることができない。 宮島先生の書の会は、月に一度ぐらいのものであったが、あたかも時局は急を告げており、むしろ時事に関する先生のお考えを拝聴することが中心で、皆書を持参しているものの、誰一人として朱で添削を受けたり、ましてや手本をいただくというようなことはなかった。私はまず九成宮を学ぶことを命ぜられ、次いで張猛龍碑を命ぜられた。とはいっても、「張猛龍碑は非常に大事なもので、これを一寸角位、原帖と同じ大きさに書いて、どんどん練習してごらんなさい」と申し付けられただけで、具体的な指導はほとんどなく、夜を徹して書いたものを持参しても、二、三枚めくったと思ったら下に置いたきりで、批評があるわけでもなく、やがて話題は、天下国家の問題や中国における書のことに転じてしまうというのが常であった。》 (上條信山)

宮島詠士
詩書
宮島詠士 四行書
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宮島詠士 詩書 李商隠『無題四首』より
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宮島詠士 春江水暖鴨先知
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宮島詠士 詩書(双幅)
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宮島詠士 月照軍營
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宮島詠士 七行書
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宮島詠士 大御心
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